学校で子供が孤立しないための「周りに染まらない」生き方とは?
2019/02/04

子供が学校という"一つの社会"に出た時に、最も必要なのは「なりすますチカラ」? 性善説・性悪説から、子供教育について考える。
人間は環境次第で
性善にも性悪にもなる
日本でも移民政策が話題です。改正入管法の「労働力として長期滞在させても、移民つまり国民としては扱わず、福祉を与えない」という御都合主義が焦点です。日本だけでなく世界規模で、国内居住者の分断と排除が起こっています。それはなぜか?
民主政が回るには、人々が浅ましくない状態、気持ちに余裕があって他者の事を考えられる状態に置くことが、必要です。それには人間関係資本(ソーシャルキャピタル)の豊かさと、それを支える中流の分厚さが必要です。
でも、グローバル化で資本流出が起こり、中流が分解して貧困化した結果、人々は浅ましくなって不安と鬱屈にさいなまれ、被害妄想を誇大妄想で埋めがちです。だから排外主義化しつつあるのです。ナチスが生まれた背景も同じです。
人は、適切な環境で育てば、憐れみに満ちた性善説的存在になります。適切な環境で育たなければ、自己中心的な性悪説的存在になります。遺伝的基盤があっても環境次第で育ち方が変わるのです。
適切な成育環境を用意できない劣化した社会では、性悪説を前提にシステムを設計する他ありません。典型が中国。購買履歴に加えて犯罪記録や近隣トラブル歴、ネット履歴、ケア履歴をも集計した信用スコアが、顔認証と並行して進んでいます。
信用スコアの低下による不便を避けようと、人は外面的には善人のように振る舞います。刑罰で脅して取り締まるより、警察官や刑務所もいらないので統治コストが下がります。行政主体か企業主体かという違いはあれ、米国が追いかけています。
日本でも、飲食店での無断の予約キャンセルや渋谷でのハロウィーン騒動が話題ですが、信用スコアと顔認証を普及させれば一発解決。人が劣化して損得一辺倒になるほど、性悪説的システムが有効です。
学校で子供に必要なのは
「なりすまし」
人が道徳的だから道徳的に振る舞う社会ではなく、人が不道徳的でも道徳的に振る舞わせる社会。それが性悪説的システムです。いやなら、道徳的な心を持つ人間を増やして性善説的システムを守る必要があります。どうすべきか。本連載はそれを示す試みです。
性善説的システムを守るには、知恵と助け合いが必要です。社会という荒野の中で人が引きずられて劣化しないよう、連帯して次世代を性善説的な存在に育てるのです。
重要なのは、学校教育が子供を劣化させること。義務教育に代わる大規模なシステムを構想できない今は、学校で受ける悪影響から子供を守らなければなりません。
学校で、正しいことは正しい、間違いは間違い、と本当の事を言えば、いじめられて殺されかねない。周りに適当に合わせて〝なりすます〞必要があります。でも人間は弱い。それだけでは自分も劣化します。
だから、心を許せる信頼できる人と仲間になり、本当に思うことを打ち明け合う必要があります。境界線の外では性悪説、内では性善説で、やっていけるようにするのです。
境界線の外の人でも見込みがあれば仲間に加える〝包摂のダイナミズム〞も必要です。でも誰もがそんな力を持つ訳がない。だからこそ「周りに合わせたフリをしつつ、周りに染まらない生き方」を子供に教えるのです。
誤解を避けると、みんなが性悪説的存在だから自分も性悪説的になる他ない、のではない。みんなが性善説的な存在だという前提で、社会の制度を作っても、個人的に生きても、とんでもないことが起こる。だからどうするかという話。
過去20年で、将来結婚したいと思う若者は9割台前半から8割台後半に「微減」した一方、一人でも生きられると思う若者は2倍以上に増えました。それを前提に、今後は結婚を前提としない社会を設計すべきだと主張する人がいますが、間違いです。どんな価値観を持つのかは、当人の主体性の問題ではないからです。社会が劣化して人間関係に
実りがなくなれば、それに適応して一人で生きていくしかないと決意する人間が増えて当然。
でも人は頼りにならないというのは性悪説的構えです。そうした構えの多数化を、民主主義者気取りで制度的に追認
すれば、民主主義を支える性善説的存在をもっと失います。「一人で生きていくしかない」という性悪説的構えを弱める政策が必要です。
PROFILE
宮台真司 SHINJI MIYADAI
1959年宮城県生まれ。社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。公共政策プラットフォーム研究評議員。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了(社会学博士)。『日本の難点』(幻冬舎)、『14歳からの社会学』(世界文化社)など著作多数。
FQ JAPAN VOL.49より転載