我が子の入学式に参加するために
勤務先の学校の入学式を欠席した高校教諭の件の本質
2014/05/05
そのうえで、私はこの件について2つの論点を指摘したい。
一つは県議の公人としてのモラルである。個人がほぼ特定できるような形で、一方的で稚拙な批判をフェイスブックに書き込んだことは公人としてあるまじきことである。いくら公務員であるとはいえ、女性教諭のプライバシーを著しく侵害した。
今回のようなケースでの教師のとるべき選択を議論したいのであれば、もっと賢い方法があったはずだ。女性教諭のモラルを非難できる筋合いではない。気の毒なのは女性教諭の息子である。「僕のせいで母さんが悪者になってしまった」と感じているかもしれない。
個人がほぼ特定できてしまう形でネット上に女性教諭を晒すという、冷静さを欠いた愚行におよんだ県議の胸の内を、多少うがった視点から覗けば、「教師は叩きやすい。大阪市の市長のように、手厳しく教師批判を展開すれば、民衆を味方に付けることができるかもしれない」なんていう浅はかな下心があったのではないかと思えてくる。そのような政治家には教育にあまりかかわってほしくはないと、教育ジャーナリストとしては思う。
もう一つは、ワーキングマザーとしての女性教諭のジレンマである。教員に限ったことではなく、ワーキングマザーは常に同様のジレンマを抱えている。仕事を優先すれば「最近の母親は子供をないがしろにしている」と批判される。子供を優先すれば「だから女に仕事は任せられない」と批判される。働く女性のアイデンティティは常に引き裂かれようとしている。
しかしちょっと待ってほしい。男性だって、子育て中なら、同じ条件であるはずだ。それなのに、子供の行事に仕事が重なった場合、暗黙の了解で母親が仕事を犠牲にしなければならないことがまだまだ多い。今回、もしそれと同じ状況であったのなら、問題の本質は、「担任としての立場と親としての立場のどちらを優先するのか」ということとは別の次元にあることになる。共働き夫婦の役割分担とか男女の働き方という次元の話になるのである。
今回の件においても、女性教諭がどうしようもないジレンマを抱えているとき、夫は何をしていたのだろうか。いや、もしかしたら女性教諭はシングルマザーなのかもしれないし、夫も同じ県の高校教諭なのかもしれない。でももし、そういうことでないのなら、「夫が仕事を休めば良かったじゃん」という話にもなる。
だとすれば、非難されるべきは、女性教諭ではなくその夫のほうかもしれないし、もしくはそもそもその夫の職場環境および上司かもしれない。それなのに、矢面に立たされたのは母親であったということかもしれないのだ。社会に散見されるアンフェアな状況の縮図ともとらえられるのである。
父親の視点としては、そこがいちばん気になった。
おおたとしまさ(TOSHIMASA OTA)
株式会社リクルートを経て独立。男性の育児・教育、子育て夫婦のパートナーシップ、無駄に叱らないしつけ方、中学受験をいい経験にする方法などについて、執筆・講演を行う傍ら、新聞・雑誌へのコメント掲載、ラジオ出演も多数。
おおたとしまさの著書一覧