宮台真司氏が勧める「モテ教育」とは? 子供を魅力的な人間に育てる方法
2019/06/13
親友は単にいい人じゃない
法に従う生活は以前に比べて異常です。だから第一に、法を必要とする定住生活を拒絶する人たちが生まれて非定住民になりました。非定住民は必ず差別されます。そして第二に、法に従う生活によって失われる共同身体性や共通感覚を回復すべく定住民が祭りをしました。祭りでは必ず非定住民が聖なる存在として呼ばれました。定住を拒絶した彼らは「言外のシンクロ」「法外のシンクロ」のプロだからです。
今話したことは学問的に確定しています。そこから見ると、祭りが消えた平成の時代に育ち、感受性が専ら言語や法(決まり)に依存する人たちは、親であれ子供であれ劣化しています。社会には、法内と法外があり、法外にも言内と言外があり、言外にもいろんなレイヤーがあり、それらが複雑に絡み合って、法内の社会を生きる際の動機づけを与えます。好きになるとか、仲間になるとかは、その御蔭なのです。
言い換えれば、「言外のシンクロ」や「法外のシンクロ」を知らない劣化した人は、損得を越えた絆で結びつく仲間を作れません。ピエール瀧と三十年もユニットを組んできた石野卓球は、薬物使用事件で炎上する若い人たちに対し、「君たちのいう友達はただの知り合い。真の友達であれば何があっても彼を支える」とツイートしました。法を破ったのだから仲間を切り捨てろと言う若い人は感情的劣化の典型です。
僕は25年前に援交を論じた時から“高校生を見ると、僕らがいう「知り合い」が彼らでいう「友達」で、僕らがいう「友達」が彼らでいう「親友」で、僕らがいう「親友」に相当する概念が存在しない”と言ってきました。「親友」は単にいい人じゃない。嫉妬があったり批判があったりといろんな感情が渦巻きながらも、尊敬や愛着が圧倒的に勝つ関係です。それが分からないと恋愛も不可能で、現に恋愛できません。
感受性が豊かなほど
生きにくい世の中
スイスの心理学者ジャン=ピアジェが「認知的発達理論」を提唱しました。「ある時期までに適切な入力があれば次のステージに行き、そのステージにおいてもある時期までに適切な入力があれば……」というもの。限られた期限までに入力がなければ次のステージに進めない。この期限を「臨界年齢」といいます。臨界年齢の概念を最初に提唱したのが、超感覚的認識を科学的に追求したルドルフ・シュタイナーです。
彼によれば、読み書きそろばんは臨界年齢が高い。だから後から取り返せる。でも、言外や法外の世界をどれほど深く感じ取れるか、色や匂いやリズムや音などによってどれだけ動かされるか、という感情的能力(超感覚的認識)は臨界年齢が低い。彼は7歳に一つのポイントを見出します。それまでは読み書きそろばんよりも大切なことがあると言います。それを逃せば言外や法外のシンクロはもう望めないのです。
子供時代の感情教育(感情的能力を深める教育)は、親や先生が言葉で与えられるものではありません。言葉によるハンドリングを越えた名状しがたい体験こそが必要だからです。法の外へ、言葉の外へ、と言葉で促すことはできますが、法外やとりわけ言外になると、言葉で合理的に指し示すのは難しくなります。だから、親や先生は「外」に触れる機会を開く「扉」になるしかありません。具体的にどうするのか。
かつては先生と生徒、親と子という「縦の関係」や、友人という「横の関係」以外に、近所の変なおじさんという「斜めの関係」があり、この変なおじさんと秘密を共有することで一皮むける過程がありました。今はそうした環境はありません。親や先生自身が変なおじさんを演じるのも、「斜め」ではないので不可能です。そこで、僕が実践として提案しているのが、「ウンコのおじさん」プロジェクトです。
僕は、虫やヘビやトカゲを捕まえるのを含めて、森が得意だし、昔のコンテンツを過剰記憶気味に覚えていて、どうすれば今でも見られるのかを知っています。僕みたいな人が、通学路にウンコの絵を描いて回れば、近所の子たちの人気者になって、森やコンテンツを教える機会を獲得できます。塾の先生もいいけれど、そうした「ウンコのおじさん」に子供を委ねることを、親や先生が考えればいい、ということです。
PROFILE
宮台真司 SHINJI MIYADAI
1959年宮城県生まれ。社会学者。映画批評家。首都大学東京教授。公共政策プラットフォーム研究評議員。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了(社会学博士)。『日本の難点』(幻冬舎)、『14歳からの社会学』(世界文化社)など著作多数。
Text >> KOUSUKE OONEDA
FQ JAPAN VOL.51より転載