【スティーヴン・ジェラード】リヴァプールの英雄の父親としての姿
2013/08/29
闘将を支える
今は亡き従兄弟の存在
ジェラードのプレーを支えるのは、従兄弟のジョン=ポール・ギルフーリーにかける深い特別な思いだ。ギルフーリーは10歳のときに、1989年の“ヒルズバラの惨事”(ヒルズバラ・スタジアムで起きた、観客の大量圧死事故)の最年少の犠牲者の名前である。当時9歳だったジェラードは、仲良しだったこの従兄弟の悲劇に大変なショックを受けた。ギルフーリーの名前は、リヴァプールFCのホームスタジアム、アンフィールド・スタジアムのにある追悼碑に刻まれ、ジェラードはこのスタジアムに来るたびに、ギルフーリーを思い出すという。
「僕はいつもジョン=ポールのためにプレーしているよ。彼がリヴァプールを愛する気持ちは、僕がこの赤いユニフォームに袖を通すたびに感じる想いと同じくらい強いんだ。彼が巻き込まれたあの惨事で、サッカーで成功してやるんだっていう思いをさらに強くしたんだ」。
両親離婚の衝撃
そして失意からの復活
2002年のジェラードは失意に暮れていた。彼の愛すべき長年一緒だった両親が離婚したのだ。ジェラードは幾度となく両親を説得する場を設けたが、結局、それでも夫婦の溝は埋まることはなかった。ゲームでは相手にリードを許していても、決して勝負を諦めない不屈の精神力をもつ彼も、こればかりは簡単には立ち上がれなかった。そんな彼ゆえに、この一大事はゲームにも影響を及ぼした。そしてチームからレギュラーの座を奪われ、サブからも外されてしまったのだ。
「両腕がもがれるような感覚だったよ。両親が離ればなれになる姿を見るのはとてもつらくて、しばらくはまともにプレーできなかった。プロとして、恥ずかしくもあった。でも、そんなときに、そばで見守ってくれたのは、妻と娘たちだった。彼女たちには本当に感謝してるよ」。
結局、辛いながらも現実を受け入れ、時間とともに調子を取り戻していくしかなかった。
浮ついた人間にはならない
昔から何も変わらない
ジェラードの実直さは、まさに彼自身そのものだ。連日クラブハウスに訪れる取材クルーには、親切かつ礼儀正しく対応する。派手なごついアクセサリーも、意味ありげなサンスクリット語のタトゥーもしない。「育ててくれた両親や家族のおかげで浮わついた人間にならずに済んだんだ。誠実だって言われるのも家族のおかげだと思う。自分でも昔と変わっていないと思うよ」。
その眼差しは、貧しい街とりわけ劣悪な環境の中でも決してめげずに、健やかに育った少年ジェラードのまま。家族の愛情がいかに大切なものであるかを証明するかのようだ。彼の関心は、もっぱら娘の将来に注がれる。
「最近は屋内の娯楽がありすぎて、子供が1日中、家の中で過ごすことになりかねない。でも、娘たちには絶対そうなってもらいたくない。そして彼女たちには何かスポーツを始めてほしい。チームスポーツなら、チームの一員として動くことや勝ち負け、フェアプレーを学べるしね。そういう経験は大人になったときに役に立つからね」。
PROFILE
STEVEN GERRARD/スティーブン・ジェラード
1980 年5月30日生まれ。イギリス・ウィストン出身。幼少の頃からマイケル・オーウェン(現在ニューカッスル所属)らと共にリヴァプールFC の下部組織で才能を磨く。若干、19 歳にしてイングランド代表に初招集され、現在、クラブ、代表チームには欠かせない存在として活躍中。元モデルのアレックス・カランとの間に2 女をもうける。(プレミアリーグ・リヴァプールFC)
「FQ JAPAN」vol.11で掲載された内容です。